おやすみなさい。私の「嵐」。

 

嵐とはなんだろうかと考えていた。大野智櫻井翔相葉雅紀二宮和也松本潤からなる5人組で、1999年11月3日にデビューした国民的アイドルで、私の推しで、ファンの愛し方が本当に上手いひとたちで、そして「嵐の1番のファンは嵐だから」と公言してしまうくらい、ファンが嵐を愛するよりも、もしかしたら嵐がファンを愛してくれる大きさよりも、ずっと自分たちで嵐を愛している人たち。そして2020年12月31日を以て、自分たちの手で嵐を休止させたひとたち。

 

私は嵐が好きだ。5人とも好きで、いわゆる箱推しだ。

私は嵐が好きでこれからも嵐をずっと推していこうと思っている。だけど、何故か分からないけど、ここ最近ずっと違和感があった、1、2ヶ月前からのことだ。このままでは私は嵐を推せなくなるのではないかと、なんとなく心のどこかでずっとそう考えていた。
確かに、嵐は1度止まって5人は行ってしまう。(実際行ってしまった。)けど音楽は鳴り続けるし、そこに嵐はずっとある。あんなに沢山の、抱えきれないほどの愛と音楽と思い出もくれた。大野くんは表から居なくなってしまうけれど、5人はきっと変わらず会うだろうし、それは私の愛した姿ではないのだろうか?なんで違和感を感じるんだろう?嵐ってなんだろう?私が愛している嵐とはなに?私の推し方とはなんだろうか?


…と、考えていた。

 


そして考えた結果、見つかりそうな答えがある。


まずひとつめ、どうやら私の中で 嵐 という言葉は3つに分類されるということ。
ひとつめは嵐を構成する5人。相葉くん、潤くん、二宮くん、大野くん、翔くん。この5人が集まって名付けられた名が嵐だ。
ふたつめは嵐という概念。翔くんの言う大型クルーザーであり、何万ものファンクラブ会員を持つ大きな大きな国民的アイドルグループ。この 嵐 が5人を押しつぶしそうなこと、きっと沢山あったと思う。
そしてみっつめ、上で書いた嵐という概念とそれを構成する5人を混ぜ合わせた「嵐」。5人と嵐は表裏一体で分けることは出来ない、だってあの5人が嵐で嵐はあの5人だから。それがみっつめの「嵐」。

(以下このブログでは  (嵐の)5人 と 概念としての嵐 と そのふたつの合わさった「嵐」 を分けて考えています。そして、どれとも分けられないもの、分けていなかったものを あらし と表記します。)

 


そして、あらし は私の中と現実にふたつある。
私の中に相葉くん潤くんニノ大野くん翔くんの5人と嵐のイメージが在って、そしてそれを混ぜ合わせた「嵐」がある。現実にも嵐という概念と今生きてる生身の5人、そしてそれを足した「嵐」が存在する。

 

さて、私は今までここを分けて考えようとした事がなかった。ぜんぶ あらし だった。そしてここまで分けて気づいた、私が推すのは「嵐」だ。相葉くん潤くんニノ大野くん翔くん5人が好きで、5人が作る嵐も好きで、そして、5人が愛する嵐と「嵐」が好きだ。その全てを総じて、私は「嵐」が好きで「嵐」を推していた。

あらし を因数分解して、わたしの好きな あらし とはなんだろうと考えて、私の あらし への推し方とはなんだろうかと考えた。このままではわたしは あらし を推せなくなるんじゃないだろうかという漠然とした違和感の原因をずっと考えていた。
そしてここまで分解してさらに気づいたことがある。

 

 

まずひとつ。私の中にある「嵐」と現実にある「嵐」の、このふたつの齟齬を少しづつ無くしていく作業が、私の あらし というアイドルへの推し方だったということ。

 

私の中の「嵐」と現実の「嵐」の違いを埋めるために、私はいつだって今の嵐と5人(=「嵐」)を追いかけた。その時々の「嵐」の向いている方向や五角形の形を知りたかった。

5人のそれぞれの個人仕事や嵐内での言動を眺めては、私の中にある5人を更新していく。そしてそれはつまり私自身の中にある「嵐」や嵐への概念の更新になる。そして更新された目でまた5人や「嵐」を見る。

これらは同じものだから、どちらが先ということでもないし、どちらが始まりということでもない。分けることはできない。「嵐」を見ることは嵐と5人を見ること同義で、5人を見ることで嵐と「嵐」を見つめていた。

私の中の「嵐」を常に更新していたいから今の「嵐」を追いかけ続けた。それが私の「嵐」への推し方だ。

そのために必死で情報には食らいついたし、バラエティだって見た。こう書くとなんだか仕事や作業みたいで辛く見えるけど(実際追いかけるの大変な時もあったし、昔ファンだった時分に推すのやめた理由はこれだった)、でも好きでやってることだし、私はこんな推し方しか知らない。絶対にもうちょっと楽な推し方あるとは思うけど。

 

…まぁ、そんなことは置いといて、ともかく私は「嵐」が好きだから5人のことを知りたかった。何度も書いてるけど、「嵐」を推すことは5人を推すことで、それはつまり5人を推すことで「嵐」を推すことだった。ただ私の中の「嵐」と現実の「嵐」を近づけたい一心だ。

 

 

さてここでもう1度言おう、私が今言っている「嵐」とは、ばかでっかい規模のアイドルグループという概念の嵐と、相葉くん潤くんニノ大野くん翔くんという人間5人を合わせたものである。そしてここまで考えて気づいたことふたつめ。

 

そう、私の推した「嵐」はもうないのだということ。

嵐は好きでいられる。5人も好きだ。過去の「嵐」を見て今を知ることは出来る。でもそれは嵐の更新であって「嵐」の更新ではない。私の推し方の、今の「嵐」を私の中の「嵐」に近づける作業はもう出来ない。だって「嵐」はもう居ないから、嵐を身に纏う5人は今居ないから、更新のしようがないのだ。追いかけられないし無いものは推せない。

 

私の推しは居なくなってしまった。

翔くんは31日、this is 嵐 liveの挨拶で言っていた。「僕たちはきっと来年以降も結構会うと思います。」「でも個人的には、それは嵐に似た何かなんじゃないかと、」

そうだ、それを私も考えていた。「嵐」はもう居ない。嵐はあったし今もあるし、5人は生きてるし、翔くんの言う通りしばしば会うんだろう。それは単純に「嵐」のファンとして幸せなことだ。超嬉しい。シンプルに嬉しい。別にこちらにお知らせしてくれなくても、5人で会うんだろうなって思えるだけで嬉しい。

けど、でも、そこに5人は集まるけど、それは私の愛していた「嵐」じゃないのだ。嵐の5人だけどそれは「嵐」ではない。そうだね、私もそう思っていたの翔くん。

 

だから1度、私の好きな「嵐」にはお別れしなきゃいけない。5人は居るけど、嵐はあるけど、「嵐」は居ないから。


ただ救いなのはこれが解散じゃなくて休止であること。いつか「嵐」の続きが始まるかもしれない、始まらないかもしれないけど、けどよすがみたいな細い糸を残しておいてくれた。

待ってる、なんて恐れ多くて伝えられないけど、一方的に待ってることは出来る。「嵐」さん達は優しかったから、それが枷になると知っていて、嵐を過去にしないで行ってくれた。(きっとそれが自分たちの救いでもあるんだろうけれど。)これが解散なら嵐は在った、になるけれど、休止だから嵐は今も存在するのだ。「嵐」は居ないけど嵐は在る。国民的アイドルグループ嵐は、この日本にまだ存在する、過去じゃない。「嵐」を愛していたものとして今それだけでいくら救いになるか。

 

さて。

じゃあ次だ、「嵐」は居ない、推しが消えてしまったがそれは仕方がない。素直にうんとは言えないけれど、5人の選んだ道だしどうにか受け止めよう。そして次はどうしようか、私は推しを失ってしまった。じゃあ私は何を推すのか。それは31日まで「嵐」で今後もずっと嵐であるあの5人だ。ちなみに嵐は過去のものだから、好きではあるけど「推す」にはならない。現在進行形で推せるのはあの5人だ。

 

 

と、ここまで考えて気づいたことみっつめ。ほんとうに恐ろしくて認めたくないけど、ここで言ってしまおうと思う。ここまで読んでくださった方がいたら気づいてるかもしれないけれど。

まず、私の推しは「嵐」だ。嵐も5人も好きだけど、推していたのも推してきたのも「嵐」だった。そして私の推し方は、私の中の「嵐」と現実「嵐」の齟齬を無くすことだった。そのために「嵐」も5人もたくさん追いかけてきた。そこで気づく。私が愛していたのは「嵐」だけなんじゃないか?…ということに。

 

「嵐」=嵐+5人だけど、「嵐」だけを愛していることと、嵐と5人を愛していることの間には大きな溝がある。嵐と5人を愛していると思っていた、こんなに優しい5人は居なくて、相葉くん潤くんニノ大野くん翔くん、5人とも好きで、愛せていると思っていた。推していると思っていた。けど私は、「嵐」だから5人を愛していたのだ。5人と嵐を愛していなかった とは言わないけれど、多分「嵐」ばかりを推しすぎた。

 

私はよく、「嵐をしている嵐が好きだ」と自称してきた。美しい言い回しだし、きっと嵐の5人も嵐をしている「嵐」が好きだっただろう。けれどそれは表裏一体で。「嵐」が嵐をしている間はいいけれど、裏を返すと、嵐をしていない「嵐」は好きじゃない、ということになる。極端な言い方だとは思うけど。

(そしてこれは嵐ファンの間ではよく聞く言い回しですが、他の方の気持ちを貶す意図は全くありません。私の心の中の問題です。)

 

きっと、メンバー5人が嵐というグループじゃなかったら、それはつまり、例えば1人づつ活躍していたり別のグループにいたり、そうだったらきっとそれぞれのファンじゃなかった。だって「嵐」のファンだったから。(まぁでも一方でこれも仕方ないのかもしれない、だって嵐じゃない5人なんて見たことなかったし。)

…そして気づきたくなかったことがもうひとつ。「嵐」が居ない今、私が「嵐」じゃない5人を追いかける熱量はもしかしたら無いんじゃないか?「嵐」ばかりを好きだった私は、嵐じゃない5人をこれからも好きでいられるのか?ということだ。

さて、思いもよらない強火箱推しのデメリット。おかしい、今もこんなに あらし が好きなのに!

書いてて今自分で超恐ろしい。そりゃなんか漠然と今後も不安になるわ、今もこれからも好きな自信はあるのに、なんか違和感…ってなるわ。だって愛する5人を自分で思っていたより全然好きでいられてなかったから。

 

 

私はまだお茶の間ファンに戻りたくない。変わらない強さで今まで通り あらし を好きでいたい。2020年の亡霊になって、ここで あらし を失うのは真っ平だ。だって あらし が大好きだから。

そのために、きちんと「嵐」とお別れをしよう。不器用な女で推し方は変えられないから。その代わりに「嵐」じゃない5人をきちんと愛そう。これは私の中での決意表明だ。

 

 

沢山残してくれた音楽や、愛や、思い出の中に、今も存在する私たちの嵐のために。こないかもしれないけどやってくるかもしれない、いつかの「嵐」をきちんと迎え入れられるために。そして、31日まで全力で「嵐」を全うした「嵐」と、嵐と、その5人を愛したはずの私のために。

 

 

 

 

 

こちらこそ本当にありがとう、信じられないくらい幸せで楽しかった。愛してくれてありがとう。愛してる。これからはきちんと「嵐」でない5人を愛するから。 

 

おやすみなさい、私の「嵐」。

 

 

 

 

 

 

またね。